山小屋日記 黒百合ヒュッテ

三月は日一日と陽気がよくなる。
一月、二月、山絶え間なく吹き殴り、土肌を削ぎ取っていくよいうな強い吹雪は、穏やかで生温かな風に変わる。陽射しも強くなり、雪の上に寝転がると居眠りでもで出きそうな日和が続く。小屋に入っている人たちも、炬燵やストーブの見張り番ばかりしていたのが、冬眠から覚めたクマのように、自然と体が戸外へと向かって動き出す。
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春の花は六月にならないと上まで登ってこない。登山口付近にあるメオトバナ(リンネソウ)は米粒ほどの二花対生になったピンクの花をつけ、素晴らしい香気を持っている。この花が他の花を誘うかのように咲きだすと、ツマトリソウ、ゴゼンタチバナ、マイヅルソウと、遠い昔の人達が名付けたかのような奥ゆかしい名前の花が後を追う。さらにコイワカガミ、オサバグサと群生する花、ミネザクラの類の花が稜線に向かって追いかけるように登ってくる。
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例年、六月十二日頃から梅雨に入る。小屋番も雨では仕事にならず、この時期は夏の最盛期前のほっとするひとときだ。
高山の木や花にとって霧と雨は恵みで、いちだんと色を濃くする。雨の合間に日が差す時、花々や木々は露に濡れて輝き、何ともいえない色合いをかもしだす。
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七月中旬にかけて、山は花で満開になる。山一面に花が咲き誇り、歩くだけで花の匂いがついてまわる。もちろんクロユリの花も黒百合平に群生して開花する。クロユリの花もよく観察すると何種類かの色があって、相対的に黒い色であるが、花弁の内側が緑色の強い花、黄色や赤色の強い花とあり、真っ黒というのはほとんどない。むしろ紫色の強い黒色が混ざった花、といった感じである。こんなにクロユリの花が群生するのはここくらいで、他の山ではあまり見られないのではなかろうか。
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夏の忙しさが過ぎて、山が静かになると、もう冬ごもりの準備に入らなければならない。
九月に入ると霜が降りるし、氷の張る事もあって、中旬になると高いところから紅葉が始まる。ナナカマドが真っ赤になり、続いてダケカンバ、カラマツが黄色に染まっていく。
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十一月、雪がきて寒くならないうちに、乾燥した薪を薪小屋に入れたり、焚きつけの粗だけを取ってきたり、小屋の窓を一重から二重にしたりすると冬の準備はほぼ完了する。
下旬には待ち構えていたかのように西風が吹き始めて、山が急に寒くなる。
毎朝、霜柱が一〇センチにも二〇センチにも伸びる。そして太陽の温かな日差しを受けて崩され、明くる朝、また長く伸びていく。

冬山には人々を満喫させるものがたくさんある。自然の音、雄大な景色、朝の御来光、それと夕日を見るのもいい。真新しい新雪の中のラッセル、強烈な吹雪、何をとっても体に感じるものがある。

山小屋の四季より抜粋 (山小屋物語北八ヶ岳黒百合ヒュッテ 山と渓谷社 1992年)

(米川正利著)

本表紙画像1
山小屋物語
北八ヶ岳黒百合ヒュッテ

本表紙画像
ほろ酔い黒百合
北八ヶ岳・山小屋主人のモノローグ

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母がつくった山小屋
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